更新が遅れて申し訳ございません。
昨年と全く同じく、松村さんからご紹介にあずかりました、現在修士2年の川端と申します。
博士課程への進学は断念し、来年度からは一社会人となりますので、もしこのBlogを読んで下さる現学部2年生の方がいるとしても、直接ゼミでお会いすることはないのが残念です。
ですので、実は、ここで私が自己紹介をしても、(あのゼミにはどんな人がいるのかな、という材料として)あまり参考にはならないでしょうし……では、どんなことを書けば、この駄文の読者の方にとって――萩ゼミに入りたいと思っているから、その参考になるようなことを求めている新3年生にとって――少しでも有益な情報を提供できるのかしら、と考えてみても、パッと思いつくのは、そう、入ゼミ対策というようなことなのだけれど、それも実は去年既に書いています。HPからのリンクは既に切れているし、検索ワードをあれこれかえてググッてみてもなかなかヒットしないので、もうちょっと時期的に遅いかなとは思いますが、一応以下にリンクを貼っておきます(これは私の書いた記事への直リンですが、無論、そこから他の人の記事へも飛べます)。
萩原研究会blogーゼミ内に境界線は、ありませんー「8番。チキンのピエロ(K)」
ヘェ、こんなこと書いてたのカ! と――過去の自分の筆跡(ふであと)というのは、さながら、伸び過ぎたために切り落とした爪先や髪の毛の残骸のような不気味さが憑き纏っていて――まるで他人事のように呆れつつも、それでもやはり、他ならぬ「自分」が書いたという事実からの逃れられなさが、この上なく恥ずかしいものですが、そうでなくとも、実は、昨年書いたこの文章、コメント欄を見ればわかるように、萩原先生から「繰り返しの多い、無駄な長文」「悪い論文の見本みたい」とお叱りを受けており、あまり人に見せられたものではない(苦笑)。
ただ、にもかかわらず、そこには今読み返しても十分に耐えうるものも少なからず含まれていると思いますし、実際、新4年生のゼミ生幾人かからは私の記事を読んで参考にしてくれたという嬉し恥ずかしな報告もありましたので、興味のある方は覗いてやって下さい。(本当は、アップデートしなきゃいけないように思われる部分もちらほらあるのだけれど、まァ、もともとがゼミの公式見解というより私個人の一意見に留まるものなので、どうか怠惰にご寛如を)
……さて、そうすると、何書けばイイのかな?
いかんせん、もう3月も半ばを過ぎたこの時期ですし、このブログがもつ「勧誘」としての意味合いもほとんど意味をなさないでしょう。あやふやな記憶をたどれば、確か、1月には既に応募書類の〆切を設けているゼミもあったように思いますし、3月末のギリギリまで猶予があるのは、いわゆる政治思想系列のゼミだけでしょうから(因みに私が――今でもはっきり覚えています――課題書類を郵送したのは締め切り前日の午後、「翌朝十時便」! まだまだ余裕で間に合いますぜ)。
あくまで個人的な印象としては――つまりは、別に統計があるわけではありません――、萩ゼミは思いの外、政治思想系列に配される他のゼミとは競合関係にはないような気がします。こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、あくまで学問的な関心を主として政治思想のゼミに入りたいというような人の場合、そのモチベーションは大体、指導教授の専門得意領野とセットになっているので、時代やテーマ、あるいはアプローチが異なる「政治思想系列」中の3~4ゼミ内での選択の葛藤というのはあまり起こらないのではないか、したがって、「萩原能久研究会と〈他のゼミ〉とのあいだで悩んでいる」という学生のほとんどの場合、その〈他のゼミ〉というのは政治思想以外の系列に属しているのではないか、と思うのです。後者にあたる学生のなかでは、「萩ゼミは2次募集があるから……」というコトで、〈他のゼミ〉を一次募集で選択する人も少なからずいるでしょうし(実際、大学院で私がお世話になった、日本政治史を研究しているある先輩はそのクチです)、一次選考の結果如何では、幸か不幸か(?)二次募集で萩ゼミを志望する人も出てくるでしょう。
そういう人たちというのは、ゼミで残りの学部生活2年間、何を集中的に勉強したいのか、というのが実は、あまり固まっていないのかもしれないし、あるいは似たようなことですが、ゼミ活動というものに、自分が何を求めているのか(上のリンク先では確か、ゼミに求めるものとして「勉強」だとか「イベントないしサークル的な遊び」というようなことを挙げたように記憶しています)ということのイメージだとかプライオリティだとかがはっきりしていないのかもしれません。
むろん、そんなこともこの時期に今更、指摘しても遅いかもしれません。
ですから、そうですね、ここでは、そうしたことを踏まえつつも、貴重な時間を割いてこの記事を読んでくれているかもしれない、そんな数奇な新3年生に向けて、「ゼミに入るために……」というマニュアルではなく、「実際にゼミに入ってから……」に思いを馳せる一助となるような、心構えや意義のようなものを書いておきましょう。
それはおそらく、あと1カ月足らずで実際にあなたが萩原ゼミに入会しているか、他ゼミに所属しているのか、ということに関わらず、きっと大事なことなのだ、と「私」が考えているようなことになるでしょう(つまり、ゼミの公式見解であるとは必ずしも限りませんので、悪しからず)。その意味で、具体性なエピソードを損なうあまりに当然の「薄い」お話になってしまうかもしれませんが、どうやらこの世間には、私が思っている以上にいわゆる「ネタバレ」を嫌う人が多いようなので(いや、つい最近も某マンガをコミックで読んでいるというゼミ生に、雑誌で先行している部分のストーリーをうっかり喋ってしまったら、激怒されたのですよ! 私自身はむしろネタバレ歓迎派なのですが……と言っても正当な言い訳ではないですね、ハイ)、それくらいがちょうどいい塩梅なのではないのかな。さらに加えれば、私は学部・大学院と一貫して萩原研究会に所属していたので、他のゼミとの比較というのは体験ベースではできず、あくまで伝聞に過ぎなくなってしまうので……いや、それでも、幾分かは萩ゼミ固有と思われるスパイスを振り撒けたらいいのかな。
前置きが無用に長いのはいつもの癖です。
では、まずゼミでの勉強について、から。
確か、萩原先生が学部生だった頃にはゼミというのは2年時から所属可能だったように思いますが、私のときは既に、みなさんと同じく、ゼミは3年時から、でした。
ゼミが設置される3年時を基準にして、学部1~2年と3~4年のあいだの違いはどこにあるのでしょうか?
今でもそういう言い方をするのかどうかはわかりませんが、慣用的には、前者を「教養課程」、後者を「専門課程」などと言ったりしますね。
「教養」と「専門」という対だと、(必修)単位・講座・授業の内容の幅や密度という点にフォーカスされる嫌いがありますが(いえ、それも決して間違いではないでしょう)、ここではそういうことではなく、あくまでゼミの有無ないしはゼミという単位の形態に着目して、両者での「心構え」の違いのようなものを見ていきましょう。
学部1~2年の日吉生活では、基本的には講義を受けるというのが大学での勉強の基本的なスタイルです。
(予習・復習が望ましいとしても)教壇に立つ先生の話を聞いて、板書にノートをとって、それを試験前に暗記して……というような。
そういう授業形態の単位はもちろん、三田に行ってからも相当数こなさなければならないわけですが、言わずもがな、ゼミはそういうものではない。
萩ゼミはもとより、大抵のゼミはこのうちに収まると思いますが、ゼミ時間内での勉強というのは、共通課題文献を担当者がレジュメを切って討論するという輪読だとか、あるいは個々人ないしグループでの共同研究の経過発表であるとか、ほぼすべてが「アウトプット」に関わるものです。
むろん、程度問題なのですが、ゼミ時間内の「インプット」はあくまでそれ以前の学生による「アウトプット」に基づくという意味で、ゼミはアウトプットに主眼が置かれます(講義でも、授業後に質問するなどのアウトプットがありますが、それは先生の講義という「インプット」を受けてのものであるという意味で、後者に重点があるのと同じ)。
こうしたことを、リンク先の記事ではこう書いていました。
「その意味で、ゼミは――普通の講義みたいな「教える‐教えられる」関係というよりも――「みなで学ぶ」関係なのではないでしょうか、と(ここで言う「みな」、つまりゼミ生には、学部生だけでなく院生や、そして萩原先生も含まれる。もちろん知識量の差はあるし、それには最低限の敬意を払ってしかるべきだとしても、それがゼミの本質ではないのだということ)。/だから、逆にいえば(これも重要!)、ゼミが「教える‐教えられる」関係ではないということ……」
ここで付け加えておくべき含意は、以下のことにあります。
(「インプット」「アウトプット」という言葉は、個人的には、どうにも好きくないのですが、他に思い当たらないので、仕方ない。)
つまり、ゼミがアウトプットに重点を置く「みなで学ぶ」空間であり時間であるとするならば、「それ、まだ教わっていません」という水戸黄門の印籠的な究極的言い訳は、ゼミでは通用しないのだ、ということです。
小学生……中学生、高校生の……いや、百歩譲って大学学部1・2年生の講義など――「教える‐教えられる」関係――では、それでもよかったのかもしれません(?)。
しかし、ゼミではそうはいかない。
論文構想発表はもとより、普段の輪読においても、準備段階において分からないことがあれば、事前に可能な限り調べておき、そうした「疑問点」をひとつの論点として自分の調査・考察結果を添えて、ゼミの場に提出する。それを受けて、先生や他のゼミ生といった周りが応答し、ときにははじめのものを修正しながら、共通理解のごときものを形成していく――というのが望ましいゼミのあり方なのではないかと思います。
ただ「わかりません。教えて下さい」というのはダメです。少なくともまず、「何が(どう)わからないのか」を明確にする努力をしないと。でないと、そもそも、訊かれた側にしても、答えようがないですし。そして「何がわからないのか」がわかれば、少なくとも事前に調べようはいくらでもあるわけです。こんな時代ですから「ぐぐる」くらいは大した労力でもないでしょう。それすらしない、というのは「何がわからないのか」すらわかっていない(つまり、さっぱりわからない)か、あるいはもっと悪ければ「そんなのわかりたくないし、わかったってどうしようもないじゃないか」と匙を投げているのかの、どちらかです。
インプットは事前準備の所与として、それを実際にアウトプットして、議論をする中で理解を深めていく。
こうした「学び」の手順は年齢を問わず個人の習慣として獲得できるものではありますし、あるいはこうした「学び」の環境にしたって、広義のサークルやら1~2年時での「演習」にもあるわけですが、それらがある種「トレーニング」として、大学学部生最後の2年間という大切な時期に集中した形で制度化されているのが他ならぬ「ゼミ」に他とは違う重きを与えているのではないでしょうか。
さて、先ほどゼミが設置される学年の呼称として「専門課程」という言葉を使いつつも、それを(少なくとも学部ゼミの意義のようなものを論じる文脈では)退けました。それには一応理由があります。
もちろん、講義にしてもレベルは1~2年時のものより上がるでしょうし、ゼミにしても「~系列」という区分けが含意しているように、これから輪読する文献や、やがては書くことになるだろう「三田論」や「卒論」のテーマだとかアプローチだとかは、ある程度「専門性」を帯びてくるというか、他の学部や他のゼミに所属している場合とは違ったものになってくることでしょう。ただ、こと学部時代のゼミに関するかぎり、そうした括弧つきの「専門性」は決して無駄ではないにしろ、必ずしも本質ではないように思うのです。
では、ゼミでの「学び」の本質はどこにあるのか、といいますと、(ここで安易に広義の「教養」という語を使いたい誘惑に駆られるのですが)、それこそつまりは、上に挙げたような「学びの手順」にこそ存するのではないでしょうか。「(原理的な)モノの考え方、その枠組み」――語弊がありそうなので「ロジカル・シンキング」という流行(ハヤリ)の言葉は避けますが――と「考えたことを自らの意見として(声ないし文字として)述べること」と言い換えてもいいでしょう(因みに、蛇足ですが、「ものの考え方の枠組みを学ぶ」というのは、私が3年生の頃の同期で、2年生に向けたゼミ紹介のプレゼンテーションの標語として、使ったものでした)。
学部ゼミにおける「専門性」など、純粋に学問的なレベルでの「専門性」だとか、あるいは社会人・職業人(professional)のいう「専門性」だとか、というようなものに比べれば雲泥の差があります。いや、もちろん、学部生にして既に「専門家」も仰天の論文を書いてしまうだとか、学外活動でプロフェッショナルとわたりあってる人がいる、ということを否定したいわけではありません。ここで申し上げたいのは、教育としての「学部ゼミ」においてはそのような「プロフェッショナル」を養成することにその意義があるわけではない、ということです。
野矢茂樹という日本の哲学者の秀逸な表現を借りれば、ゼミの意義というのは、単なる「専門教育」「プロフェッショナルへの導入」、つまり「素人が玄人になろうとするための」ではなく「ずぶの素人が筋金入りの素人になろうとするための」「教養教育」にあるのではないでしょうか。
どういうことか、私なりに噛み砕いて説明してみます。
たとえば、棘のある言い方ですが「知識はあるのにバカな人」とはどういう人でしょうか?
彼は、ある専門領野Aに関しては、だれしもが認める知識を持っているかもしれません。しかし、それ以外の領域Bに関する議論についてはサッパリ黙りこくってしまう、そういう人のことです。言いかえれば、彼は「知識」と「思考」が分離できていない。
むろん、得意な専門領域Aについても彼にとって知らないことは少なからずあるでしょう。彼はそうした未知の事柄に遭遇しても、それまでに得た知識や思考で類推したり、新たに調べ、探究する術をもっているでしょうから、何かしらかの意見を表明するぐらいのことはできるでしょう。しかし、そうした同じ作業が、他の領野Bでは――思考やリサーチの手順の形式としてはほとんど同じだとしても――全くできない。これがここで言う「知識はあるのにバカな人」です。
こうした「専門バカ」のことを私は別に否定したいわけではないのですが(ステレオタイプの「天才」! むしろ憧れすらあるかも?)、これからゼミに入ろうとする人の多くは別にそうした人になりたくてゼミに入ろうとしているわけではないでしょうし、ゼミもそうした養成所ではない。
たかだか2年の「専門教育」でその道の第一人者を凌駕する成果を発揮するというのは、よほどのことがないかぎり、ないことでしょうし、それよりも大事なことがあるのではないか。
たとえ、「専門バカ」「その道の第一人者」と自他ともに認めるような博識な人がいたとしても、その人は決して「全知全能」ではありえない。
時間や資源が限られたなかで、博識者ですら誤ることはあるでしょうし、常に未知の事象と遭遇する可能性があります。大抵の人は言わずもがな、です。
「あの人(専門家)が言っているんだから、そうなんだろう」とか、未知の出来事に遭遇して唖然としてしまう、そうした思考停止を退けるための訓練こそ、ここで「ずぶの素人が筋金入りの素人になろうとするための」「教養教育」と言ったことに込めたいことに他なりません。
むろん、全知全能ではありえない上に、資源も限られているのだから、ある程度、私たちの生活が専門家への信頼によって成り立っていることは否定しません。何も、通俗デカルト級の懐疑論者になれと言いたいわけではありません。ただ、なにか自分の人生にとって重要な局面に立たされたときに、他人に依存せず、自分自身の思考・意志・判断ができる(ただし、自分のパースペクティヴの限界も弁え=恥を知りつつ、ということを付け加えておきます。それは知への敬意[≠盲信]の裏返しだと思います)、そのほうがいいんじゃないでしょうか、ありていに言えばそういうことです。
「学びの手順」「(原理的な)モノの考え方、その枠組み」「考えたことを自らの意見として(声ないし文字として)述べること」と先に強調したのはそういう意味です。
(蛇足ながら、「学びの手順」といったときに、「自分で調べる」ということを先に含めたのには、意味があります。つまり、得手不得手問わず、ある領野における議論に参入する際には、大体の場合、先行する知的/実践的な蓄積があり、それがある種の共通基盤を形成しているわけですから、その共通基盤を疑うにせよ、まずはそれを知らないと。教科書嫁!ってヤツです。)
「政治学を学んでいる」と言うと「じゃあ、ゆくゆくは、大臣か学者ですね」なんていうステレオタイプの反応が、未だ絶滅していないということを我が身をもって体験したときは唖然としましたが、それはおくとも、「政治学」を学んでいるみなさんが、これからそれをプロフェッションとして生きていくとは思えません(そういう人はほんのごくごくごくごくごく僅かでしょう)。だから、(ホントかよっと唾を吐きたくなる気持ちもわかりますが)「大学教育≒準職業教育」というような発想が少なからず蔓延しているなかでは(経済学や商学、理系の学部と比べて)「なんのために政治学勉強してるの」「政治学ってなんの役に立つの」と訊かれて、答えに窮するという経験をした人も少なくないのではないでしょうか(その意味で文学部に近い?)。
(そもそもなんで自分は政治学科に入ったのだろう? 偏差値高いとこから選んでったらそうなった、とか? これを書いている途中、テレビで「地下鉄サリン事件」15周年のドキュメンタリードラマをやっていたけれど、たとえば私にとっては年代的にはそれより、むしろ高校2年の時の9.11が衝撃だったけれど、その驚きゆえ? いやいや、「和魂洋才」をもじった「文魂法才」なんて言葉があるように、本当は文学部行きたかったけど、「文学部行ってどうやって飯食うの?」って親に言われたから、納得させられる政治学科にしぶしぶ入ったってか? どれも本当のようで、どれも嘘のよう。謎)
でも、ここで、ここまで「ゼミ」について述べてきたことを強引に、アクロバティックに展開しちゃうわけだけど、「政治学」ひいては「政治哲学(政治思想、政治理論)」というのは良くも悪くも「アマチュアの学」だと思います。語弊を恐れず、再び、野矢茂樹の言葉を拝借すれば、「素人の素人による素人のための」学問。
不用意に言ってしまえば、仮に「政治」と呼ばれる営みが、私たち一人ひとりが共に生きていくことを指すのだとすれば、専門家だとか他人だとかが言っていること、やっていること、やろうとしていることに対して、得手不得手の領野を問わず、チェックして自分なりの意見を表明する、ひとと議論していくことの助けになるもの、それが政治学であって、ゼミで学んでいくことなのだと思います。
実は、こうした意見に少しでも賛成してくれる人にとって、萩原ゼミはぴったりかもしれない!!!!!
というのも、このことは実は、院に入ってから、学部生とは違った立場でゼミには参加してようやく気づいたのだけど、たとえば、ここ数年の三田論テーマ(これが原則、その年の全体ゼミ[単位としては3年ゼミ]の輪読文献の設定の基準になる)を見てほしい。
・2006年度: <帝国>の逆襲―グローバル時代の人間・国家・平和―
・2007 年度: 生・政治の現在
・2008 年度:Drawing the line
・2009 年度:「非政治・反政治の政治学」
2006年度っていうのは私が学部3年のときだったから、っていうオマケとしても(?)次からのここ3年間、実は表題は変わっているけれど、大まかなフレームワークは変わっていません。と言っても、なんのこっちゃわからないだろうけれど、そこは「ネタバレ禁止」の原則で(笑)。実際に萩ゼミ入ってから学んで下さいな!(断わっておくけど、説明できないワケじゃ、ないんだから、ネッ!汗)
2008年度と2009年度なんて、もはや、ただの言い換えなんじゃないだろうかとすら思えなくもないのです。
「政治的なもの」と「非政治的なもの」(とされているもの)の「境界」を見凝めてみましょう、という……。
こうすると、本来テーマ設定としてはあまりに抽象的というか、だから、実際、あくせくして輪読文献を読み重ねていっても、どこに共通性があるのかわからなくなってしまうこともあるかもしれないのだけれど、実は、個々具体的な論点=内容ではなくて、「大まかなフレームワーク」つまり「ものの原理的な考え方」というレベルでは一貫してることに、実際のゼミに参加してみるとふと気付かされます。それはおそらく、萩原先生が、ここ数年、それが最も大事だと考えていることの最低限に薄められたものなのだと思います。もちろん、「考え方」(方法論)はいつだって「何を考えるのか」ということ(対象)とセットにしないと意味を成さない。だけど、それこそ後者(研究テーマ)の興味関心は人それぞれでしょう? 自分にとってそれが大切だと思えるもの。 政治学ないしは萩ゼミの目指すべきところが、先に述べた意味で「専門」にではなく「教養」にこそあるのであれば、訓練として「考え方」は文献を読みながら少しづつ身につけていきましょう(学ぶ≒真似ぶ)、でもそれをどう使うか、何に使うかということは、自分で選び実践しなさい――というのが、実にしっくりきませんか? それなら、将来ゼミ生がどういう分野に行こうと、きっと「役に立つ」ハズだから!
したがって、共通テーマがあまりに大きいということには、そういう教育的配慮がなされているんだと私は思います。
無限ではないにしろ、共通テーマが広ければ、それだけ個々の関心のある問題に対応できるはずですから。
そして、いわば、そういう補助輪のある状態ではじめての論文を書き終えた後は、「原則、テーマ制限なし。自由」のなかで、卒論を書く、と。
もちろん、その過程のなかでは、先生だけでなく、他のゼミ生と議論しながら、試行錯誤してくことになるわけです(だから、念のため付け加えておきますが、先にやめませんかと提案した「それ、まだ教わっていません」というのと、「わかりません」というのは決して同じ発話ではありません。相手の言っていることがわからなければ、それが腑に落ちるまで「わかりません」と問い詰めるべきです。できれば、「あなたの言っていることは~~ということですか?」というふうにパラフレーズしてみるといいでしょう。そういう作業をしないと、話し手もそもそも相手に言いたいことが通じているのかどうか確認できませんし、そうした対話を通じて、最初の意見の発話者も当初の理解が深まったり、改められていくのです。「理解する」ということに貪欲になること。この真剣な粘り強さはとても大事で、それこそ対面で議論するゼミだからこそ、鍛えられるものではないでしょうか)。
その意味で、萩ゼミのメンツは、必ずしも「もともと思想に興味があった」という人ばかりではないということは、案外腑に落ちたりもしますし、「政治哲学」に興味がある人はもちろん、そうでない人にとっても(いや、むしろ、だからこそ)充実したゼミなのだと言えると思います。
(ついでに言っておきますと、「共通テーマ」が広いということ、そしてゼミでの議論は「教える‐教えられる」関係ではなく「みなで学ぶ」という錯綜とした途を辿るということ、この2点からしても、三田で萩原先生が担当する「政治哲学I、II」の講義とはその形式も内容も――決してすべてではないにしても――異なることになります。たとえば、ゼミで読む本は、例外はもちろんありますが、広義の「古典」というよりも、比較的最近敢行された邦訳書が主になります。なので、ゼミで読む本の位置づけだとか、その背景の知的基本を知るためにも、ぜひ「政治哲学」は履修しておくことをお勧めしておきます。ゼミの議論と被るような講義もあるでしょうが、そうでない部分の方が多かったように記憶しています。ゼミによっては、履修科目のいくつかを指定するところもあるようですが、萩ゼミの場合、「政治哲学」の履修は一応義務ではありません。でも、履修しておいた方がいいんじゃないかな、と思うので)
(さらに余談を加えますが、昨年末あたりから最近にかけての、政治思想書の新刊ラッシュは羨ましい限りで……。デリダ、アガンベン、ジジェクとか、一体何冊邦訳刊行されたんだ? いや、キャツらに限らずともあれやこれや……こんだけあれば、文献提案とか、相当楽なのになァ……それにしても、どういうわけか去年はゼミで読むような類の新刊がかなり不況だった印象がぬぐえず……私の普段の行いが悪い所為でせうか! 嗚呼)
こうした、萩ゼミの目指すところを、言うのに、とてもしっくりくる言葉があります。
Sapere aude!
これはカントの『啓蒙とは何か』という論考の中のモットー。「敢えて賢こかれ」。
とても有名だから、知っている人の方が多いと思います。
けれど、私にとってこの言葉は、ゼミに入る前と、ゼミを卒業しようという今では、確実に、その重みと厳しさを増して、血肉化されています。
さてさて、ついつい調子に乗って、ウケの悪そうな勉強の話ばかりしてしまったけれど(汗)、それはホラ私の役割だよと割り切りつつも、それでも、以上のことと同じようなことは勉強以外のイベントをはじめとする広義の「ゼミ活動」にも言えることだと思います。
ゼミはだいたい、一学年15人くらいだから、先生と院生を入れて、35人くらいの規模。
しかも、なかには4年生と3年生が一緒の時間に勉強することが(ほとんど)なく、お互いが顔を合わせるのは飲み会など年に数回っていうゼミもあるみたいだけど、萩ゼミは基本、常に全体で動きます。(例外は、まぁ居残り三田論発表の3年生のサブゼミくらい、かな)
勉強はもとより(3年生の輪読でのレジュメ準備なんかはグループごとだし)、ソフトボールや沖縄合宿、クリスマス・パーティなどの公式イベントや、ゼミ後の夕飯だとか、試験前のノート交換だとか……列挙しきれないのでエトセトラ。
また、これまでのゼミ生の記事をみて紹介されているように、さまざまな係が各人に割り振られています。
さてこうした広義のゼミ活動では、35人もの人間が集団でものごとを営むわけで、それだけの数が集まれば、そりゃあ悲喜こもごも、色々なことがあるわけです。
とくに、沖縄合宿なんて、1週間近くも屋根を共にするわけだから、色々と協力しなきゃやってけないこともあるし、ケンカもあれば(?)、思わず涙してしまうようなドラマもあって。だから、否が応にも、人間関係が深くなるわけです。
そうしたなかで、決して慣れ合うだけではなく、各人が、時に衝突し、互いを尊重し合い、そうして「ゼミ活動」が成り立っていく。
それは、比喩としては、ひとつの「村」だとか「社会」だとか「家族」だとか言うことができるかもしれないけれど、やっぱり、「ゼミ」としか言いようがない気もします。
「単なる友達」以上の、それを越えた絆というのかな。
多分、お互いに協力することは、単に依存することとは決定的に違っていて、「自律」した個人のあいだに成り立つのだとすれば、萩ゼミは、ひとつのそうした空間に他ならないのだと、4年間そこで過ごした者として、そう思う訳です。
人に依存せず、人に依存させず――自律しながら協力していくこと。
そうして、萩原ゼミという場が成立して、代から代へと受け継がれてゆく。
だとしたら、それはやっぱり、現役もOBも含めて、ひとつの「啓蒙のプロジェクト」なんじゃないだろうか
(ってカッコつけてみたくもなるさ!!w)
萩ゼミは終わらない―――!!
さて、つい先日、いわゆるひとつの「追いコン」なるものがあって、現4年生に加えて私も追い出されてきました。
そこで、3年生(と一部4年生)の言葉のつまった色紙をもらったわけです。
一方で、卒業する4年生の側からも3年生の一人ひとりにメッセージカードを贈ろうという企画があったのですが、ちょっとした手違いで、私のところには連絡が届かなかったわけであります。
細かい事情は省略するとして、結果だけ申しますと、会終了のギリギリの時刻に、私は3年生17人分のメッセージカードをちゃちゃっと書き上げたのです。
不慮のミスおよび時間がなかったという言い訳を武器に、実は17名にあてたメッセージはすべて同じ一言にしました(断じて、手抜きではありません。ですが、しっかり書かれた色紙を見るにつけ、血も涙もない私でも、チキンなりに罪悪感を覚えざるを得ず……でも、仕方なかったのです!涙)。その言葉というのは、
"Fluctuat nec mergitur"
ラテン語で「たゆたえども沈まず」という意味です。
どこでこの言葉と出会ったのかは失念してしまいましたが、確かパリの紋章に刻まれたモットーだとか。
その紋章には荒波を行く船の姿が描かれています。
新4年生は現在、就職活動中で大変でしょうし、それを終えて後も、卒論であるとか、あるいは院生志望者は院試であるとか、これからも様々に大変なことを乗り越えていかなければならないことでしょう(無論、それは卒業していく私や現4年生にしても同じことです)。
そして、この4月からまた、新たに17期生を迎えて、萩ゼミの1年がスタートしていくわけですが、それこそ人間の出会いがあれば、ゼミとしても時に荒波に巻き込まれることもきっとあるはずです。
けれど、そうしたときにも、ゼミの一人ひとりが、あるいはゼミ全体が、どこを目指して漕いで行くのか――その自律こそがなにより大事なのだということを、ちょっと説教臭いですが、込めたつもりです。
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ええっと、そういえば、新4年生のひとりが去年私が書いた記事を読んだ際、「いやァ、ゼミに入るってこんなにも厳しいことなのか――って思いましたよ」と感想を漏らしてくれましたが、顔も見たことのないゼミ生、しかも一応は院生の言葉だったりするので、入ゼミ選考前の緊張と相まって、こちらの意図以上に重く受け止められてしまうのかもしれません……。ですが、ここまで書いてきたことは、自戒というよりはむしろ――実は、一片(ひとひら)の思い出とそれに伴う、後悔混じりの反省だったりしますから、そこらへんは割引いて下さって構いませんので。
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ここまで書き終わってから、久しぶりに萩ゼミのホームページ覗いてみたら、ギョッ、っと我が眼をこすっています。(最近、眼鏡買いましたが、今はつけていません)
「萩原研究会への入会を考えているあなたへ」という萩原先生のエッセイを読み、入ゼミ選考を控えていた頃の心象風景を走馬灯のように思い出して……――と、いうか……いままでここで私が書いてきたことが、より洗練されて、書いてあるではないデスカ!!
なんてこった……!!
決して、なぞったわけではないのですよ、いや、本当(マジ)で。
一目瞭然、これが「格の違い」ってヤツですね。
ふと、今年の頭に提出した修士論文の出来を思い出すに、あな恐ろしや。
修士でてもまだまだ、修業が全然足りません。「ケーモー!!」(叫)
しっかし、それはさておくとして
良くも悪くも、
ああ、自分の大学生活は
(ゼミだけでも4年。 演習入れれば5年。 必修入れたら6年まるごと)
確かに、この人の下で――、
この人から学び――、
この人に育てられたのだ、
と。
心から、そう思いました。
師の薫陶と、ゼミでの出会いに心から感謝します。
ありがとうございました。
そして、未来の17期生のみなさん。
萩原能久研究会へようこそ。
私は来年度から教室にはいませんが(たぶんそれはみなさんにとって「アタリ」ですw)、来年度の4年生(16期生)そして新たに修士に入るカワウソ君たちは、皆、それぞれに何かに秀でていて、そして、とてもイイヤツらです(私もこの4年間、つまり5つの代の仲間とゼミ生活を送ってきたことになりますが、どの代、どの人も、とても個性に溢れていて、それでいて、やはり、集団としては「萩ゼミっぽいなァ」と思えるから不思議ですね)。だから、緊張するなとは言いませんが、恐がらずに萩ゼミの門を叩いて下さい。
私が話を聞いて、「ちくしょう! 俺もその代の萩ゼミ生だったらよかったな」と悔しがるような、そんな素敵なゼミにみなさんでしていってください。
(負ける気はしませんよw)
それでは、また、どこかで。 きっと、いつか。
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最後に「たすき」を渡さなければならないのですが、私の所為でかなり「おして」ます。(本当にすみません)では、15期ゼミ代の
よしりゅう!
よろしく頼みます! 卒業式を明日に控えた時期に、申し訳ない。
けれど、よしりゅうならやれる! そう信じています。
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